部落に行ったらすぐ女を探しに行くんです。
休憩時間に女を強姦するんです
山本 泉(やまもと・いずみ)
1939年北支派遣軍第1軍混成第4旅団第14大隊4中隊に入隊。1940年8月山西省で百団体戦に参加し、負傷。1943年3月河南作戦でも負傷して軍事学校に転職。1944年に除隊して日本に帰国する。自営業のかたわら、戦争資料、遺留品等を収集し、自宅を資料館として開放。亡くなるまで平和活動に貢献した。


振り返ってみると、我々が沖縄に行く前、
中国で何をやったかと
近藤 一 (こんどう・はじめ)1920年生まれ
1940年12月、日本陸軍に入隊。中国山西省遼県(現左権県)で初年兵教育を受ける。翌年、初めて討伐作戦に参加。1983年「兵士達の沖縄戦を語り継ぐ会」を立ち上げ、自身の戦争体験を語りはじめる。2000年、中国人「慰安婦」裁判の原告を支える日本の市民グループと出会う。以後、山西省を毎年のように訪問し、旧日本軍の性暴力被害者とも会う。2003年、東京高裁において戦場での性暴力の加害事実を証言した。


兵隊たちが(襲撃した村で)叫ぶのは
『ユー ハオ クーニャン(いい娘はいないか)』ですよ
松本栄好(まつもと・まさよし)1922年生まれ
1942年、久留米連隊に衛生兵として入隊。大隊本部付きの衛生兵となり、月一回、大隊付の「慰安婦」として朝鮮から連行された女性たちの性病検査をするなど軍医の手伝いをする。半年後、上社鎮に派遣され、討伐作戦に参加。兵隊にコンドームを配り、捕らえられた女性たちの性病検査を行う。中国帰環者連絡会発行『季刊中帰連』などに証言を残している。


(性暴力というのは)戦争があったために、
戦場があったために生まれたことなんです
鈴木良雄(すずき・よしお)1920年生まれ
1940年、独立混成第 旅団独立歩兵第大中隊に入隊し、山東省に駐屯。1942年、第59師団第54旅団第110大隊歩兵砲中隊に転属。山東省莱蕪県、章丘県、禹城県を転戦。最終の地位は曹長となる。1945年北朝鮮に移動。 10月シベリアに抑留。1950年撫順戦犯管理所に収容。1956年不起訴で帰国。戦争の実態をありのままに伝えたいと各地 で証言活動をした。


女は子どもを産むから、殺してしまえ。子どもは
大きくなって日本軍に抵抗するから、殺してしまえ
金子 安次(かねこ・やすじ)1920年生まれ
1940年北支那方面軍独立混成第10旅団44大隊に入隊、二等兵として中国に従軍。1945年中国で敗戦。シベリア抑留。その後、撫順戦犯管理所に収容。6年間の勾留後、1956年釈放。同年、日本に帰国。中国帰還者連絡会の会員となり、戦地で行った犯罪を証言する活動をはじめた。



は慰安婦ではない。
なんといっても慰安婦ではない
万愛花 Wan Aihua (1930-2013年)内蒙古生まれ
4歳のころ、売買婚で羊泉村に連れてこられた。14歳の時に現地の抗日活動に共感し、協力するようになる。3回にわたり、日本軍に捕らえられ、拷問と性的暴力を受けた。1943年の冬に意識不明となり、裸のまま放り出されるも、一命をとりとめる。戦後、都会の太原市に移り、あちこちの村を転々としながら裁縫や、子守りなどして生き延びた。


なぜ外へ出たいかというと、
太陽の光をあびたいから
劉面換 Liu Mianhuan(1927-2012年)山西省盂県西藩郷羊泉村生まれ
16歳の時、3人の中国人と3人の日本兵によって無理やり自宅から、進圭社村の拠点となっていた民家に連行され、監禁される。昼間は兵隊、夜は隊長に強姦される日々が続く。40日間の監禁で病気となり、それを知った父親がお金などを日本軍に渡して解放された。村の人々が被害事実を知っていたため、満足のいく結婚ができなかった。


頼れる身内がいないんです(夫の言葉)
高銀娥 Gao Yine(1925-2008年)山西省盂県南社郷麻地掌生まれ
17歳の時、河東砲台に連行され、約二週間にわたり、監禁され、強姦される日々を送る。夫が日本軍に金品を渡し、解放されるも、この性暴力被害と不妊を理由に離婚することになる。その後、2度の離婚と再婚をするも、子どもに恵まれることはなかった。96年、卵巣のう腫と診断され約6キロの腫瘍を摘出。


あの時以来、心がおかしくなってしまった
郭喜翠 Gou Xicui(1927-2013年)山西省盂県西藩郷銅炉村生まれ
15歳の時、八路軍に協力していた姉の夫と姉の3人の子どもと一緒に、日本軍の拠点に連行され、日中は複数の日本兵や中国傀儡兵に、夜は日本軍の隊長に強かんされた。その後も2度、同じ拠点に連行され、7日〜10日ほど監禁された。3度目に捕らえられた時には、身体が衰弱し、精神状態が不安定となったために釈放された。戦後はずっとトラウマに苦しめられていた。


顔に木の棘が突き刺さり、
流れ出る血を母が拭いてくれた
尹玉林 Yin Yulin(1922-2012年)山西省盂県鳥耳荘生まれ
1941年河東村に日本軍が侵攻。同年夫が病死し、19歳で未亡人になる。村に駐屯する日本兵が彼女の家を訪れ、強かんされる日々が続く。2年後、村を離れて助かったが、その時の恐怖からトラウマに苦しむ日々が戦後も続いた。